王貞治

王貞治の学歴は?出身校は早実!高校時代にはノーヒットノーランを記録?

王貞治さんと言えば、「一本足打法」で、2度の三冠王を達成、通算868本塁打の記録を樹立し、国民栄誉賞を初めて受賞したことが有名ですね!

監督としても、リーグ4回優勝、日本一2回、第一回WBCでは日本代表を初代王者に導くなど大きな功績を残しています。

そんな王貞治さんですが、どのような学生時代を過ごされたのでしょうか?気になりますね!

そこで今回は、王貞治の学歴は?出身校は早実!高校時代にはノーヒットノーランを記録?

について徹底調査しました。

ぜひ、最後までご覧ください!

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王貞治の学歴を調査!出身中学は?

王貞治さんの出身中学は、墨田区立本所中学校です。

王貞治さんは、1940年5月20日に6人兄弟の次男として墨田区に生まれました。

しかし出産直後、王貞治さんは仮死状態だったそうです。

今からは想像もつかないことですが、王貞治さんはなんとか一命をとりとめつつも、その後も病弱で3歳まで立つことすらおぼつかなかったそうです。

しかし、ご両親の深い愛情によって育てられ、王貞治さんは中学校時代には身長175㎝にもなり、見違えるほど強い体に成長し、ケンカも強くなっていたそうですよ。

「自分は中学生の時点で175センチメートル前後あり、実際に肩幅もよかった。もっと実際の話をすれば、好戦的だったと認められていた。」

引用:wikiwand

すっかり、健やかに成長した王貞治さんは中学時代、卓球部や陸上部で活躍し、特に陸上部では砲丸投げの選手として都大会にも出するなど、運動能力も高くなっていたようですね。

また、王貞治さんは小学校4年の時から野球をしていましたが、王貞治さんの通っていた墨田区立本所中学校には野球部がありませんでした。

そこで王貞治さんは、地元の高校生が主に活躍していた野球クラブ「厩四(うまよん)ケープハーツ」に中学生ながら、加入していたそうです。

上級生たちに揉まれて野球をしているうちに、どんどん上達していったそうです。

そして、ある日「本所中学にすごいのがいるらしい」との噂が広がって、中学校に東京都の野球大会の招待状が届いたのだそうです!

王貞治さんたちは急遽メンバーをかき集め参加したそうですが、なんと区大会で優勝東京都大会にも出場するという驚きの結果になりました。

現在、本所中学校には王貞治さんの自筆「気力」の記念碑がたてられていて、学生たちに夢と希望を与え続けているようです。

荒川博さんとの出会い

荒川博さんと言えば、巨人コーチとして王貞治さんに「一本足打法」を指導した人ですが、その荒川博さんと王貞治さんの出会いが、王貞治さんが中学2年生の時でした。

当時、毎日オリオンズの選手だった荒川博さんは、オフの日に近所の公園へ出掛けてたそうですが、そこでたまたま王貞治さんが出ていた野球の試合を見かけたそうです。

荒川博さんは、王貞治さんを見て凄いピッチャーがいるなと思ったそうですが、王貞治さんが左で投げているにもかかわらず、打つ時になると、なぜか右で打つことを不思議に思って

「なぜ君は左で投げるのに右で打つんだ?」と声をかけたそうです。

王貞治さんにしてみれば、自転車で通りかかった見知らぬおじさんが、突然試合に割り込んできて驚いたようですが

「それは、親父から箸と鉛筆と算盤は右でやれと言われているので、バットも右で持たないと親父に文句言われると思って…」と答えたそうです。

もともと左打者だった荒川博さんは、「今の野球は左利きの選手に希少価値があるのに、君はわざわざ右で打つなんてもったいない話だ…」と言ったそうです。

すると王貞治さんは、すぐに左打席に入って打つと、左中間をライナーで破る二塁打をかっ飛ばしたのだそうです!

この時、王貞治さんに光るものを感じた荒川博さんは、自分の母校である早稲田大学に来ないかと勧めたそうです。

しかし、王貞治さんが「大学の前に高校に行かないと…」と言ったのを聞いて、「君、まだ中学生なの!?」と驚いたそうです。

この荒川博さんとの運命的な出会いが、後に王貞治さんの人生を変え、将来荒川博さんと師弟関係になろうとは、この時王貞治さんはまったく想像もしていなかったそうです。

僕にとっても、プロ野球選手から声を掛けられたことは物凄く大きなものがありました。自分が考えていた以上に、野球の腕を高く評価してもらえたことが凄く嬉しかったですね。本当にありがたい出会いでした。

引用:致知出版社

王貞治の出身高校は早稲田実業?

王貞治さんの出身高校は、早稲田大学系属早稲田実業学校高等部商業科です。

早稲田実業高校は、偏差値75で非常に入るのが難しい優秀な学校です。

しかし、王貞治さんは初めから早稲田実業高校を目指していたわけではなかったそうです。

王貞治さんの父親は中国から日本に出稼ぎに来ていた中国人ですが、出身地には医者もおらず、電気も全くなかったそうです。

だから王貞治さんの父親は、自分の長男を医者に、次男の王貞治さんを電気技師にして、母国で働いてもらいたいと考えていたそうです。

そして王貞治さんも、父親の意向に沿い晩学に励むために、進学校の都立両国高校を目指していたそうです。

しかし、担任教師から少し危ないと言われ、同じ進学校の東京都立墨田川高等学校を受けたそうですが、残念ながら落ちてしまいます。

そして、仕方なく荒川博さんの母校でもあった早稲田実業高校に進学することになったのだそうです。

早稲田実業高校に進学したことは、王貞治さんにとっては不本意でした。

しかし、進学希望していた墨田川高校には野球部がなかったので、もし、王貞治さんが墨田川高校に受かっていたら野球選手にはなっていなかったかもしれませんね!

王貞治さんは、後にこの受験の失敗を「人生の大きな分岐点の1つ」と言っています。

荒川博さんとの出会いがなければ、墨田川高校受験失敗後、野球をやろうと思って早稲田実業高校に行くこともなく、巨人への入団もなかったそうです。

甲子園に4回出場

早稲田実業高校に入学した王貞治さんは、中学時代から野球の上手さが有名になっていて勧誘もされていたので、すぐに野球部に入ったそうです。

早稲田実業高校の野球部には、新入生だけで約80人もいたそうですが、王貞治さんは、入学から2週間でレギュラーになり、5番でレフトを守り、控えのピッチャーでもあったそうです。

そして、入学後わずか一ヶ月で、春季都大会先発として起用され、日本大学第三高等学校4対0で勝利、甲子園への切符を手にしました。

王貞治さんは、高校1年生の夏と2年生の春夏、3年生の春の合計4回甲子園出場を果たしています!

初めて出場した高校1年の夏の甲子園では、2回戦で1対8で県立岐阜商業高校に敗退してしまいましたが、翌年高校2年の春の甲子園では、エースとして出場し決勝戦で高知商業高校と対戦して5対3で勝利しました!

王貞治さんは、この勝利で早稲田実業高校に、そして関東に初優勝をもたらしたのです!

この時の試合では、王貞治さんの左手中指と人差し指のマメがつぶれていたそうで、ボールが赤くなる「血染めボール」だったというエピソードが残っています。

しかし、王貞治さんは他の選手に動揺を与えないように、痛がるそぶりも見せず、黙って我慢強く耐え抜き、勝利を得たのだそうです。

こちらの写真は試合後の熱海の温泉に浸かる王貞治さんです。

包帯の手が痛々しいですが、とても幸せそうな笑顔ですね!

王貞治さんの甲子園での通算成績は6勝3敗で終わりましたが、その活躍はプロ野球のスカウトに注目されていたそうです。

2004年には、王貞治さんの早稲田実業高校での功績を讃えて「早稲田実業高校・王貞治記念グラウンド」が、南大沢に出来たそうです。

王貞治は高校時代はピッチャーでノーヒットノーランを記録した?

王貞治さんと言えば、日本一のホームランバッターとして有名ですが、高校時代はピッチャーとして活躍していました。

後に王貞治さん自身も「高校2年の頃が投手としてピークだったと思う。この後バッティングは良くなっていったけど、ピッチングはどことはいえないが、どこかおかしくなっていった」と語っています。

投手としてピークだった証拠が、高校2年の春に出場した選抜で、寝屋川高校柳井高校久留米商業高校3試合連続完封勝利し、決勝でも高知商業高校に勝利し、甲子園で全国制覇を果たしたことです。

さらに夏の甲子園では、春に続いて対戦した寝屋川高校相手に延長11回を無安打に抑えるノーヒットノーランの偉業を果たしました!

延長に入ってのノーヒットノーランは、王貞治さんだけが唯一の記録保持者です。

準々決勝では神奈川県法政大学第二高校に2対1で残念ながら敗退しました。

そして、高校3年生の時の春の選抜では打者としても活躍し、30年ぶりとなる2試合連続本塁打を放ちましたが、この大会は準々決勝で済々黌高校に敗退しました。

また、その年の夏の東京都予選決勝では、明治高校と対戦し、1対1で迎えた延長12回表に4点を奪ったのですが、その裏に5点を奪われて逆転サヨナラ負けをし、5季連続の甲子園出場は果たせませんでした。

王貞治さんにとって、高校最後の甲子園に出場できなかったことは、立ち直ることが出来ないほど悔しかったそうです。

僕も最後の甲子園は地方大会の決勝で敗れて、出場できませんでした。それまでに4回も甲子園に出ていたから、当然出ることができると僕もチームも過信していたから、出場の夢が断たれたときはものすごいショックを受けた。僕はしばらく立ち直ることができませんでした。

引用:週刊朝日

王貞治さんは、高校2年生の夏にはすでに読売ジャイアンツから誘いがあったそうですが、大学進学を考えていたため断っていたそうです。

しかし、高校最後の甲子園に行けなかった挫折が王貞治さんの心を駆り立て、大学進学ではなくプロ野球選手になる道へと決断させたそうです。

僕は当初、高校を卒業したら早稲田大学に進学して野球をやるレールの上に乗っていた。最後の夏の甲子園に行っていれば、大学に進学していたと思う。だけど、甲子園に行けなかったことで、「本当にこの敷かれたレールの上を走っていていいのか」と考えるようになった。プロ入りに気持ちが傾きました。それがあったから、その後の僕の野球人生があるわけです。

引用:週刊朝日

そして、1959年王貞治さんは、巨人に入団します。

もともと王貞治さんは、東京で生まれ育ったので「プロに行くなら巨人」と考えていたそうです。

巨人には、初め投手として入団したそうですが、当時の水原監督に「投手としての大成は難しい」と判断され、野手転向を勧められて、一塁手へなったそうです。

王貞治さんは、プロ野球選手になって3年目までは、特に目立つ活躍はありませんでしたが、4年目に「一本足打法」を習得してからは大打者へと登り詰めていきました!

そして、その後は「世界の本塁打王」となり、プロ引退後は巨人監督、さらにはダイエー・ソフトバンク監督を務めて、日本一にも輝きました!

まとめ

いかがでしたか?

今回は、王貞治の学歴は?出身校は早実!高校時代にはノーヒットノーランを記録?

についてまとめました。

王貞治さんの出身中学は、墨田区立本所中学校、出身高校は早稲田実業高校ということがわかりましたね。

また高校時代には、ピッチャーとして活躍し、高校2年の夏の甲子園では「延長戦でのノーヒットノーラン」という記録を打ち出していましたね!

今後も王貞治さんのご健康とご活躍を応援していきます。

最後までご覧いただき、ありがとうございました!

 

 

 

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